正岡子規1867–1902
まさおか・しき | 近代俳句の祖。「写生」を唱え、俳句と短歌を革新した
小伝
伊予国松山(愛媛県松山市)に生まれる。東京帝国大学を中退して日本新聞社に入り、新聞『日本』紙上で『獺祭書屋俳話』『歌よみに与ふる書』を発表。月並俳諧を厳しく批判し、見たままを写す「写生」を唱えて、俳句と短歌の両方を近代文学へと革新した。雑誌「ホトトギス」を育て、高浜虚子・河東碧梧桐という二人の巨頭を世に送り出したのも子規である。
二十代で喀血して「子規」(血を吐くまで鳴くホトトギスの意)と号し、晩年の約七年は結核性の脊椎カリエスでほぼ病床にあった。それでも『病牀六尺』『仰臥漫録』を書き続け、庭の鶏頭や糸瓜を写生し、死の前日まで句を詠んだ。ベースボールを愛し、野球用語の翻訳を試みた文明開化の人でもある。三十四年十一か月の生涯に残した句は二万を超える。
代表句
柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺
いくたびも 雪の深さを たづねけり
鶏頭の 十四五本も ありぬべし
春や昔 十五万石の 城下かな
夏草や ベースボールの 人遠し
赤蜻蛉 筑波に雲も なかりけり
糸瓜咲て 痰のつまりし 仏かな
痰一斗 糸瓜の水も 間に合はず
松山や 秋より高き 天守閣
靜かさに地をすつてとぶ螢かな
名月や大海原は塵もなし
初空や烏は黒く富士白し
HitchHaiku で読む・倣う
子規の「写生」は、HitchHaiku の句作支援がめざす原点でもある。見たものを見たままに——その百年前の革新は、スマートフォンを持って街を歩く現代の句作にそのまま生きている。故郷・松山の句は吟行マップでもたどれる。